
武蔵野に住む作家・杉本隆治は、小説「野盗伝奇」を『甲信新聞』という山梨県の地方紙に連載していた。ある時、東京の潮田芳子という女性から「野盗伝奇が面白そうだから貴紙を読んでみたい」という内容の購読申し込みが、甲信新聞に届く。杉本は感謝の礼状を芳子に送った。ところが、申し込みから1か月もたたないうちに「小説がつまらなくなったので、もう購読しない」という葉書が届く。
これから連載中の小説が面白くなるはずだが、購読を中止することを不審に思う杉本は、同紙に載っている山梨県内で発生した、2人の男女の服毒心中事件の記事に目を留める。そして、芳子の新聞購読の目的は小説ではなく、この事件だと疑い始める。
用意周到に計画を立てて実行するほどの頭を持つ彼女だが、心は穏やかではない。事の最後まで知らなければ、安心できなくなる。人の心は複雑だ。連載小説の終わりまで新聞を購読していれば、何事もなかっただろう。そうすれば小説家にも疑われることもなかった。思い出すたびに、そう考えてしまう。
松本清張の小説は、面白く有名なものが多い。私は、特に「地方紙を買う女」が、忘れられない。この小説を知ったのは、中学生の頃見た「テレビドラマ」だった。その時にはすでに、映画化もされ、何度もドラマ化されていた。夫の復員を心から願う妻の祈りと、余計なことがあだとなる面白い筋書きが、私の心を惹きつけたのだ。
小説が書かれた前年、1956年度の『経済白書』の序文の有名な一節が、「もはや戦後ではない」だった。この一節が、松本清張の心に火を着けたのかもしれない。「いやそうではない、まだ戦後なのだ」と。
戦後の日本への集団引き上げ者は1960年代まで、個別引き揚げ者は1970年代後半まで続いていた。国民がいまだに戦後の混乱期にあるなか、小説を通じて「国策と現実の相違」を訴えたかったのだろうか。グアム島で、残留日本兵が発見されたのは、1972年。大阪で「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、開催された万国博覧会の2年後であった。