
村山富市氏
◆―― 戦後50年談話 阪神大震災対応で批判
1994年に発足した自社さ連立政権の首相を務めた村山富市(むらやま・とみいち)氏が17日死去した。101歳だった。関係者が明らかにした。94年当時、村山氏は社民党の前身である社会党の委員長で、羽田内閣総辞職後の同年6月、自民、社会、新党さきがけ3党の連立政権樹立合意を受け、第81代首相に就いた。社会党出身の首相は片山哲氏以来、2人目だった。
戦後半世紀にわたり対立関係にあった自民、社会両党の連立政権誕生は、その後の政界再編に大きな影響を与えた。
首相就任を受け、日米安保体制堅持や自衛隊合憲、日の丸・君が代の容認などを表明し、社会党の基本政策を転換した。戦後50年に当たり「痛切な反省」や「心からのおわびの気持ち」を明記した首相談話を発表。被爆者援護法制定など戦後処理問題にも取り組んだ。95年1月の阪神大震災では、危機管理対応に批判が集中した。
96年1月、首相退陣を突然表明。退陣後は社会党委員長に再選され、党の名称を社民党に変更するなど党勢の立て直しを目指した。
2000年6月に政界を退いた。引退後は日朝関係改善や平和問題に関心を寄せ、講演活動で各地を回った。
明治大専門部卒業後、大分市議、県議を経て1972年に旧大分1区から衆院議員に初当選。8期務めた。
【自社さ連立政権】1994年6月、羽田内閣の総辞職を受け自民、社会、新党さきがけの3党で発足した政権の枠組み。社会党委員長から首相に就いた村山富市氏は日米安保堅持、自衛隊合憲、日の丸・君が代を容認した。政権与党で臨んだ統一地方選、参院選に相次ぎ敗北。96年1月に村山氏は退陣し党名を社民党に変えたが、多くの議員が民主党結成に加わり、分裂した。10月の衆院選も惨敗、さきがけと共に閣外協力に転じた。98年6月に連立を離脱、自社さ体制は終わった。