地域経済活動の拠点として整備された室蘭産業会館
組織再編への重責担う/産業会館の建設に尽力
戦時経済体制への移行の象徴でもあった北海道商工経済会。戦後は商工会議所法が新たに制定されたことで、各地で商工会議所を目指す動きが広がった。
室蘭商工会議所の創立総会は終戦翌年の1946年9月25日。戦後経済復興のかじ取り役となる会頭は、臼井邨三郎氏が務めた。
臼井氏は戦前、栗林徳一体制で副会頭を務め、生産配給の一元的指導を担う室蘭商工業組合協会の会長も担った。事業者の自主的運営機関の設立を目指して商議所準備委員会が立ち上がると、北海道商工経済会室蘭支部長だった臼井氏を代表として設立発起人(21人)を選出。組織再編へ市内事業者に呼びかけを行った。
戦後、新たに発足した商議所は、経済秩序の混迷を続けていた時期でもあり、商工業は緊迫状態とともにいかにして再生するかを模索中だった。組織復活の中核を業者自身の協働と自立で担っていく宿命を課せられていたともいえる。
臼井氏就任時、2人の副会頭のほか、理事、監事、常議員、15部会があった。数こそ異なるが、現在の商議所と似たような組織構成。発足当時の事務局は7人だった。
また、旧市役所庁舎が商工会議所の建物として返還された。当初は別の建物と交換する予定だったが、創立総会直後に臼井氏が市に陳情したことで、従来通りの施設を使用することとなった。
48年に臼井氏の後任に選ばれたのが、室蘭自動車合資会社(現道南バス)の初代社長・徳中祐満氏。53年の新法としての商工会議所法や高度成長期への対応に注力した。
特に、室蘭産業会館への建設対応に追われた。商議所と市、市議会を交えた会議所庁舎建設小委員には徳中氏のほか副会頭、常議員も加わり、議論を重ねた。商議所内でも、徳中氏を委員長とする庁舎建設委員会を立ち上げて、約20回の協議を通して建設具体化と早期着工に傾注。経済活動の拠点整備に向けて議論は白熱した。
徳中氏は26年から市議会議員を務めており、正副議長を歴任。39年に道議会に活動の場を移して議長も務めた。
戦後の商議所再発足から15年を迎えた際、「戦後の再発足が力強く、敏速かつ順調に行われたのは、商工協会以来の伝統、さらにさかのぼって、明治の中期より盛り上がった地方経済界の結集力を継承し得たからである」と述べた徳中氏。66年8月に逝去。旧室蘭産業会館に胸像が設置されたのは、地域産業経済界の発展に多大な功績を残した表れでもあった。