1930年代の室蘭市内の商店街。疎開で地元を離れたり廃業する店舗も多かった
軍需品の供給、最優先に 建物疎開、廃業事業者も
商工会議所が商工経済会に変わったように、戦時経済での国家統制の強化は業界単位でも加速。一見、戦争とは無縁にも見える業界も統制下に入り、中小企業の再編成と余剰労務者の勤労作業従事へとつながる。
商業組合法はそもそも、世界恐慌による圧迫から地場商業者を守ることが目的だった。大正時代までは中小商業への法整備がなかったことから、諸産業の規制と秩序安定を目指して、業種別に組合を組織させる狙いだった。保証責任室蘭薪炭小売商業組合を皮切りに、法的に組織化された組合は17に達した。設立を指導したのは室蘭商工会議所で、半数は事務を委嘱。
同法に基づかずに業者間の協調を図った組合も60超に上った。まだ自由な営業は一定程度残されていたが、満州事変勃発や日独防共協定締結、日中戦争開戦と戦局が刻々と変わり、国家総動員法で潮目が変わった。
同法の最大の特徴は、戦争遂行を至上命題としていること。軍需品の充足が最優先。自由経済は制限。統制経済が強化された。
全ての事業者が組合に加入しなければ営業が不可能になり、さらに生活必需品を扱う組合は配給統制に組み込まれた。最初に統制が敷かれたのは米穀。他府県に先駆けて配給体制が行われた。国も相次いで規制を図り米穀流通の管理体制に踏み出した。
室蘭商工会議所が北海道商工経済会室蘭支部となるきっかけとなった商工経済法の公布は、地場中小にも従来の在り方や考え方を根本から覆すこととなる。
商業組合法と工業組合法を統合して制定された商工組合法では、統制組合は命令による成立。地域や業種が該当する場合は強制加入。既存の組合はいずれも改組を余儀なくされた。さまざまな業種が合わさり、食料品日用雑貨、生鮮食料品、繊維製品、燃料の統制組合が誕生。1944年には4組合だったが、その後地域実情に沿い細分化。最終的には36組合まで増えた。
重要産業団体令や企業許可令などにより、企業統制に加えて再編成も促された。再編による余剰人員を労務作業に回すための円滑化を図ることでもあった。当時の室蘭日報によれば、小売業者の中には、代々営んできた商売を手放すことへの不安を抱く人々の様子も報じられている。
ただ、戦局が厳しくなると企業整理はいやが応でも進んだ。空襲による火災発生時に重要施設への延焼を防ぐため建物を強制的に撤去する建物疎開で、移転して営業を継続する一方で、やむなく廃業する事業者もいた。
疎開は第1、2次と行われた。中には、玉音放送が流れた後も建物を取り壊す工事もあったという。ただ、壊された建築材は転用されず、積み上げられていたこともあり「無暴奇怪な破壊行為」と指摘する声もあった。